泥棒に学ぶ経営(盗跖の五徳)
犯罪を推奨するわけではありません。
ただ、どんなことにも何かを得られる可能性はあるものです。
中国の古典にある、大泥棒の盗跖のお話は、経営のヒントになるかもしれません。
盗跖の五徳
中国の古典である荘子などに、大泥棒だった盗跖にかんする話がのっています。
孔子とおなじ時代のひと…とのこと。
その盗跖に、手下のひとりが次のように尋ねたそうで。
「泥棒にも道はあるのでしょうか」
それに対し、返答はつぎのとおり。
「道のないものは無い」
- 他人の持ち物を見つける「聖」の徳
- 人より先に入る「勇」の徳
- 出る時は「義」の徳
- 時期を見る「智」の徳
- 均等に分配する「仁」の徳
「この五者に通じないで大盗をなせたものはいない」と。
それぞれ補足するなら、つぎのとおりです。
- 聖……盗む先にどれくらいの財産があるかを見極める目
- 勇……盗みにはいるには勇気も必要
- 義……自分が先に逃げるのではなく、しんがりを努めるようでなければ、仲間はついてこない
- 智……盗める時期や方法を判断できなければ、上手くはいかない
- 仁……盗んだものの分配も公平にしなければ仲間はいなくなる
なにか経営に通じるものがあるな…と。
孔子は紀元前500年ごろのひと、荘子は紀元前300年ごろ。
そんな時代から、現代の経営にもつうじる道・在り方が説かれていた。
ひとは変わらない…ともいえますが、本質をつける孔子や荘子の凄さなんでしょうね。
経営の五徳
盗跖の五徳を経営にあてはめるなら、つぎのように言えます。
- 聖……どんな相手や場所に、売上のタネがあるかを見極める
- 勇……事業には上手くいく保証はないのだから、勇気も必要
- 義……事業は一人ではできないから、周りにひとを集められるだけの義も大事
- 智……時期や方法などをわきまえなければ売れるとは限らない
- 仁……たとえば三方よし…のような考えがなければ、周りのひとは去っていく
これらは、言葉だけで達成できるものではありません。
随所に、数字もかかわってきます。
まずは「聖」である売上のタネ。
盗跖の時代は、うわさや偵察などで得た情報がカギだったのかもしれないですね。
でも始めるまえに、どれくらいの売り上げが得られそうか…にあたりをつけるのは大事でしょう。
それから「勇」と「義」は、数字ではあらわしにくいものですね。
ひとに関することにはそういう傾向がありますが、だれかを雇っている経営者なら実感できるはず。
「どうして自分の思うように行動してくれないんだ…」と。
そして「智」。
なにかを売ろうとするときも、相手は自分のおもうようには行動しません。
だから、相手が欲しいものはなにか…と考えるマーケティングなどが大事になってくるわけです。
そのときには「売れたらどうなるか」とかんがえる。
広告宣伝や販売促進をふまえたうえで、儲けがでるような筋書きを整えなければならない。
とうぜん、数字も必須です。
終わってみたら赤字だった…なんてイヤですもんね。
最後に、とてもむずかしい「仁」。
泥棒稼業では、盗んだものの分配をするときが一番もめる…なんて見聞きした覚えがあります。
本でも映画でも、仲間割れの場面ってありますもんね。
ただ、泥棒にかぎらず、利益の分配はむずかしいもの。
ひとの欲に限りがないこともあるかもしれませんね。
それでも、働きにおうじた分配をかんがえるとき、数字であらわせないものも数字であらわす。
そんなことも必要じゃないか…と思ってしまいます。
数字だけでは納得できないけれど、それでも数字をつかわざるを得ない。
たとえば、自分の役員報酬の金額は、納得できるものでしょうか。
より納得するためには、この「仁」に至るまでの過程をすべて数字でもあらわしてみる。
その積み重ねで納得せざるを得ないこともあるでしょう。
さらに、儲けもすべて分配してしまうと、困ります。
事業は続いていくわけですから、つぎのタネ銭も残しておかなければならない。
じゃあ「それは一体いくら必要なのか」。
これは、先の見通しを数字であらわさない限り、分からないものです。
経営には、やってみなければ分からないことも多いので、勇気が必要です。
ただ、無策で始めてしまうと、上手くいかなかったときは困ります。
それを少しでも軽減するには、やっぱり数字ともつきあっていく必要があると思います。
夢や希望は言葉であらわせることも多いですが、数字も大事にしていきましょう。
まとめ
中国の古典にある大泥棒・盗跖の話には、経営にも通じるものがあるのでは…とみてきました。
ふだん経営の場面では、その時その時ごとに頭をひねるようなこともあろうかと思います。
そして、その対策は、その場その場で考えざるを得ないもの。
ただ、経営からはなれて、たとえば読書などしてみると、ふと閃くことがあるかもしれません。
もちろん、読めば必ずなにかを得られる保証はないですよ。
いそがしい時間をやりくりしたとしても、ムダ骨に終わることもあるのです。
ただそれでも、読書というのは、自分がなにかを得るための一つの方法です。
先人の知恵は偉大。
読書も、趣味の候補としてかんがえてみましょう。
※ 記事作成時点の情報・法令に基づいています。

