先生は何をするひとか

先生は、サービスをするのか、指導をするのか、あるいは何もしないのか。

「学ぶ」を軸にかんがえてみましょう。

 

先生はサービスをする

「税理士」とネット検索すると、「えらそう」なんて候補がでてきたりします。

 

税理士にかぎらず、その業界とか世間の習慣で「先生」とよばれる職業ってあります。

すると、とりあえずは「先生」とつけて呼んだりも。

よく分からなくても、なんとなく失礼になりそうですからね。

角を立てたくない…というか。

 

ただ、そう呼ばれ続けていると、なかには「自分はえらいんだ」と思ったりするかたも。

「先生」とは、基本的には目上のかたに言いますからね。

 

いっぽう依頼をする側からみてみれば。

角を立てないために「先生」とは呼んだものの、頼んでいるのはサービスだったり。

税理士でいえば、決算書とか申告書の作成・相談などですね。

 

じぶんにとっては苦手、あるいはちょっと不安があるから依頼をする。

もちろん知識やノウハウにたいする敬意はあるかもしれませんね。

でも、その対価としてお金を払っているので、ある意味、そこでチャラ。

なにかの折に耳の痛いことをいわれたりすれば、余計なお世話だよ…と。

そんなときに「えらそう」と思ってしまうのかもしれないですね。

 

そんな税理士業界では、「指導」という言葉もわりと出てきます。

 

先生は指導する

税理士は国家資格ですから、税理士法という法律も存在します。

そこで使命としてうたわれているのは、納税義務の適正な実現をはかること。

つまり、ルールを守りましょう…ということです。

そのルールを守れるように、「指導」という言葉がつかわれるのです。

 

この「指導」についてかんがえるとき。

学校の先生を想像すると、分かりやすいかもしれませんね。

それも、商業化していない学校の先生を。

小学校とか中学校、そしておそらく昭和のころの先生です。

もちろん、本当に子どものためになるかどうか…をかんがえている先生ですよ。

 

そんな先生の「指導」は、「サービス」とはいえないような場面も多々ありました。

サービスとは、お客さまの要望にこたえるものですからね。

いっぽう指導では。

望んでもやってくれないことがあったり、望まないのにやってくることもある。

今ではなく将来をみているから、そうなるんでしょうけれどね。

 

だから指導の効果に気づくのは、しばらく時がたってからのことも多い。

「あ、そういえば昔、言われたな」ということってあると思います。

それの意味を理解するのに、時間がかかることもある。

もちろん熱血タイプの先生が盛り上げてくれたおかげで、なにかを頑張れた…ということもあるでしょう。

その場で理解できることもある…と。

 

ここまでの「指導」も「サービス」も、おもに「教わる」ためのもの。

「学ぶ」ことを考えるなら、べつの先生像もあるかもしれません。

 

先生は何もしない

もし「学ぶ」をつぎのように定義するなら。

  • だれも気づいていないことに自分だけが気づき、納得できる解をみつけること

先生は何もしないかもしれません。

だれも気づいていないことなんだから、助言もしようがないですから。

 

子どもの頃をふりかえってみれば、そんな事がなかったでしょうか。

とくに遊んでいるときに。

自分だけの世界…ですね。

どんなことであっても、興味を掘り下げていけば、こんな境地になるとおもうのです。

仕事のなかにも、きっとあるはずですよ。

 

だったら先生は必要ない…とおもいきや。

先生は、学ぶ過程において気づきの触媒のようなものにはなり得ます。

すごく尊敬しているひとを追いかけているとき。

じぶんが変わったり、なにかを習得したことってないでしょうか。

そんなときは、学んだのはたしかに自分なんだけど、解がみつかった瞬間、先生からその解をもらったような感覚にもなるものです。

 

だから、先生がいたとしても、なにを学べるかは、事前には分からない。

学ぶとは、知識やノウハウを教えてもらう代わりにお金をはらう取引のようなものではないわけです。

ただ、サービスや指導よりも、学ぶほうが…どう言えばいいんでしょうね。

過程にあるときの気持ちはともかく、なにかしらの解がみつかったとき、あるいはそう思えるときは、間違いなく楽しいを超える言葉、「自分はやったぞ!」と言いたくなるような気持ちになっているはず。

先生は何をするひとか…について書いてきたわけですが、学んでいるかを考えてみましょう。

人生が有意義…というと味気ないですが、生きている実感と言うんでしょうか。

それが得られるはずですから。